花の色は

 春4月、桜の季節である。

 百人一首にも花の歌がある。

花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに

‍ ここでいう花の色とは、若いころの美しさ。長雨でぼんやりしていたら、いつのまにか盛りを過ぎてしまったといった意味らしい。「経る(ふる)」と「降る」、「眺め」と「長雨」がそれぞれ掛かっていると、様々な解説に書かれている。長雨の中愁いを帯びた美女の姿が浮かび上がるような趣のある歌である。作者小野小町といえば、現代でも、どこかの地域の美女を○○小町として使われるほどの美人で有名である。他人よりもはるかに美しかったとすれば、そのショックは美しいだけ大きい。

‍ 美がいつの間にか変質し失われてくのは万人に訪れる自然の摂理である。ただし、本人が知らないうちに他人に変えられたとしたら、おそらく愁いではなく怒りとなるだろう。知らない間に傷をつけられたり、勝手な顔に整形手術されてしまったり、あるいは、就寝中髪の色を変えられたとしても[1]大事件である。

 では、著作物の色を変えられてしまったら? 本日は、「色」のお話。

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‍  絵画作品を複製しようといった場合、写真に撮ったものを紙面に更に複製する。その際、絵画作品の適切な複製のための著作権者の色校が必要とされる。「色校(いろこう)」とは、色の校正の略語である。原稿を提出したのちに、文章の校正を行うのと同様に、絵画を写した写真が原作品との間で差異がないかといった承認を著作者から得るための校正が行われる。

‍ 絵画を図録や美術書等に掲載する場合に必要な色校は、原作品の再現性の度合いである。ここに3つの色が存在する。原作品の色、原作品を写真撮影した色、そして、紙にその写真を印刷するときの色である。最終的に書籍の形で発行されるとすれば、紙面にどのようなインクを載せて「どの色」を再現するかが重要である。言い換えれば、原作品についての色の再現度合いについて、著作者あるいは著作権者に最終確認を取るということになる。

 あるフランスの画家は、すでに没しているものの、その著作権者の了承を得ることが非常に難しく、数回から数十回のやり取りが必要だったとされてきた。画家は、世に知られた世紀の大画伯である。著作権保護期間は終了以前は、多くの編集者は著作権者の望む「色」を出すために、印刷見本を郵送してエンドレスな色校正を重ねてきた。たかが「色彩」されど「色彩」。画家本人にとってもその継承者にとって、書籍化するということは、作品を世に伝え残すための一つの方策である。本人は没している中、遺族が望んだのは、画家の生前存在していた「色」に限りなく近づけることだったといわれている。

‍ 多くの時間がかかったとしても、それでも美術書の場合は、出版社側も、著作権者側も、同じチームである。両者ともに青なら青といった色の中でどのレベルの発色やら光沢やらで「原作品に最も近い[2]」と合意するかの検討である。全員が同じ方向に向かって、落としどころを見つけていくある種の共同作業であったと考えられる。

 さて、映画ではどうだろうか。前述の絵画の著作権者だったらとうてい許さないと思われる事件が起きている。色の出し方ではなく、色を変える、すなわち、水墨画を色付きの絵にしてしまうようなことである。この事案は、「白黒映画を高度映像系人工知能を駆使してカラー作品にした復刻DVD販売」と謳って、カラー化した海賊版DVDを販売したことに対する裁判である。2026年1月、大阪地裁は、名作モノクロ映画を無断でカラー化し海賊版DVDを発売した者に対し、懲役1年6月(執行猶予3年)罰金50万円の有罪判決を言い渡した[3]

‍  新聞報道等によれば、昭和29(1954)年に白黒で公開された映画「ゴジラ」をカラー化したDVDを2024年11月に販売したことが逮捕容疑である。一方で、このような海賊版を販売しないにしても、「AIで白黒動画をカラーにする」ためのツールを紹介したり販売したりサイトが多々あることも事実である。

‍  新技術が生まれると、すべて新しい技術で塗り替えたくなるというのは、ある種、新しもの好きの性かもしれない。「今までできなかったことができる」という気持ちから、新技術による新たな成果がより輝いて見えるということもあるだろう。加えて、AIという単語が絡むと、自動的に、よりよいものが創られるのではないかという期待を持ってしまう。

‍  私のようなAIへの疑問を口にする旧石器人に対しては、いやいや、時の流れは止められませんよという向きもあるかもしれないが、発言の趣旨は、AIそのものの発展の懐疑ではない。むしろ、AIさえ使えばなんでも可能となり、目に見えるものすべてを自分の自由にしていいのだという思想が孕む危険性である。著作物の場合、作品をどうするかは、生みの親たる著作者次第なのだから。 

 金城学院大学の研究室の窓から、毎年変わらぬ桜色に染まったキャンパスを望みながら、そんなことを考えた。

小川明子(金城学院大学デザイン工学部教授)‍ ‍


[1] ドラマ「不便な便利屋」では、主人公は、飲んで帰った翌朝、しばしば金髪になっているといった事件に遭遇する。テレビ東京、2015年4月11日―6月27日まで放送。https://www.tv-tokyo.co.jp/benriya/

[2] コンサートも然り。会場で聞いた音をどんな形でCDに録音して再生していくかという点は、おそらく、レコードを制作する側でどこまで再現可能かに挑戦していることと同様であろう。

[3] 一般社団法人コンテンツ海外流通促進機構による プレスリリース(2026年1月28日付)https://coda-cj.jp/news/2635/

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中山一郎(北海道大学教授)



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