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4 オープンであること
 さて、研究上の「生みの親」を失って学界の孤児となった私は、このように多くの「育ての親」に恵まれた。これらの先生方は、それぞれ個性的で、もちろんタイプは異なる。しかし、これらの先生方は、私のような孤児を受け入れるオープンさを持っていた。いずれも異見に対してきわめて寛容であり、あえてこれと直接議論しようとした。そこでは、どんなに突拍子もない見解であっても、けっして頭から決めつけたり、排除したりすることなく、「なるほどそうきましたか」といって、相手の立場で思考してみる柔軟さと懐の深さがあった。
 不思議なことだが、このように立場を異にする者同士が直接対面して議論すると、誰もが相手の立場をよりよく理解することができるようになり、それまで自己の中で自明だった考えが相対化され、お互いに思考が磨かれるという現象が必ず起きる。その中で、それまでまったく想像もできなかった新たなアイディアや選択肢が生まれてくることも少なくないのである。
 オープン・ディスカッションは奇跡を起こす。私にとって研究上の「育ての親」だった先生方は、学問や学者のあり方として、オープン・ディスカッションが無限の可能性を有していることをさまざまな形で教えて下さった。私はそう思っている。
 もちろん、誰しもこうしたことはつい忘れがちである。立場、発想、利害関係など、同じ方向性を持った者同士が集まれば気が合うし、すぐに盛り上がるものである。その方が「常識的で合理的」な議論ができると思ってしまうことさえあろう。特にわが国では、異質なものとの苦手なコミュニケーションに怯え、同質性の高い環境で集団的に一丸となることに心地良さを覚える風潮がどこかにあるのかも知れない。利害関係なく自由に議論できるはずの学者の世界でさえ、そうした危険と無縁ではなかろう。
 だからこそ、もともと人好きで八方美人な私も、自由でオープンなディスカッションと直接の対面コミュニケーションの可能性を常に信じられる者でありたい。そう思うのである。

早稲田大学法学学術院教授 上野 達弘



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