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3 「育ての親」に恵まれて
斉藤博先生と著作権法学会
 私が在籍した頃の京都大学には、知的財産法を専門とする教授はいなかった。私の2人の指導教授も専門は民法だった。大学院生にも知的財産法を専攻する者は自分以外いなかった。関西を見渡しても同じ分野の研究者は少なく、知的財産法関係の研究会が開催されるのもたいてい東京だった。このように、当時の私には知的財産法関係のツテは全くなく、そのような意味でも学界の孤児だったといえるかも知れない。
 著作権法学会というものの存在を知ったのは、私が修士課程の時だった。学会というものに行けば何となく研究らしいことをしている気分になれるのではないか、そう考えた私は参加を企てたが、辻先生も会員ではなく、周囲にも会員はいなかった。仕方がないので、学会誌の奥付を探って、そこに記載されていた事務局に直接電話をかけた。京大の法経本館玄関に設置されていた古い公衆電話。その向こうに聞こえた声は、今から思えば尾中普子先生(当時・大東文化大学教授)だった。何の紹介もない私に対して、先生は「来週、学会研究会があるからいらっしゃい。そしてちょうど前夜に判例研究会もあるからついでにおいでになったらいかがですか」といって下さったのだ。
 この判例研究会は、斉藤博先生(当時・筑波大学教授)が主宰されており、当時は大塚の筑波大学で開かれていた。上京した私は、誰も知り合いがいないので、おそるおそる会場に入って、やっと末席に居場所を確保した。そっと前方を見上げると、聴衆の狭間に、司会をしている斉藤先生の小柄な姿が見え隠れした。
「この人が斉藤先生か・・。」
 斉藤先生のお名前は私も文献では頻繁に接していたが、実物を見るのはこのときが初めてだったのである。
 翌日の学会は、上野の東京国立博物館で開かれた。1994年11月25日のことである。当時会長の土井輝生先生(当時・早稲田大学教授)が壇上でご挨拶をされていた姿は今でも記憶に残っている。しかし、それは当時の私にとってあまりにも遠い存在で、ご挨拶する機会さえなかった。ほかの参加者にも直接の知り合いがいない私は、他人の名札をそっと見ては「おお。これが○○先生か」などと驚きに浸るだけで、やがて人知れず帰宅するしかなかった。
 また別の機会にSOFTICシンポジウムというものが東京で開かれた。1995年11月のことである。ここにも、私は直接の知り合いがおらず、まして自分を紹介して回ってくれる後見人もいなかった。勇気を出して懇親会とやらに出席したのはいいが、わいわいと談笑する出席者の輪に入っていくことができず、人の群れを遠く眺めながら、一人ただグラスを傾けてばかりだった。しかし、このときの私は、その頃準備を進めていた修士論文の構想を斉藤先生に見ていただけないかと考えて、レジュメの入った封筒を上着のポケットに忍ばせていた。ところが、斉藤先生は多くの人に取り囲まれていて近づけず、私は遠巻きに見つめるしかなかった。なかなか人が途切れなかったが、わずかな隙間にしがみつくように分け入って挨拶すると、「これ読んでいただけませんか」と半ば強引に封筒を押しつけた。その様子は、まるで中学生がはじめてラブレターを渡すときのようだったかも知れない。それでも、斉藤先生は数日後、神戸まで電話をかけてアドバイスを下さったのである。
 しばらくたった頃、斉藤先生は、「著作権情報センターで若手を集めてドイツ文献を読む研究会をするから来ませんか」と声をかけて下さった。当時、新橋にあった著作権情報センターの一室に集まっては、Adolf Dietz教授の論文などを、毎回十数行程度という実にじっくりしたペースで精読するのである。当時まだ院生だった駒田泰土さん(現・上智大学教授)、三浦正広さん(現・国士舘大学教授)、本山雅弘さん(現・国士舘大学教授)といった、尊敬すべき同業者と知り合うことができたのも、その時のことである。


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