オープン・ディスカッションの奇跡


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1 早稲田の杜に
  早稲田大学に赴任して、2ヶ月がたとうとしている。「もう慣れましたか?」と声をかけられることも多い。もともと順応性の高い私ではあるが、もうすっかり落ち着くことができた。むしろ、ずいぶん前からここにいるような気さえする。
 私はすでに7年前から、非常勤としてロースクールの講義を担当していたので、そのせいかも知れない。また、自由を基調とする早稲田大学の校風は、私の母校である京都大学のそれと似ているからかも知れない(今時、政治的な立て看板や袴姿での演説を構内に見かけるのはなかなかレアだろう)。しかし、同僚の先生や事務職員の方々が私を温かく迎えて下さっているというのが、何より大きいと感謝している。
 早稲田大学といえば、知的財産法に関しても、高林龍先生が1995年から現在に至るまで教授を務められ、また、渋谷達紀先生が2012年3月まで在籍された。時代をさかのぼると、1960年から1997年の長きにわたって、かつて著作権法学会会長や著作権審議会委員も歴任された土井輝生先生が教鞭を執られた。さらに、1949年から1954年には、著作権法に関する業績も少なくない民法の戒能通孝先生が教授の地位にあった。そんな歴史と伝統を有する早稲田大学でこれから仕事ができることを、私は光栄に思う。

2 学界の孤児として
 もっとも、私のこれまでの道のりを振り返ると、それは決して平坦でなかった。むしろ道なき道だったというべきかも知れない。
 研究者を目指す者にとって最も重要なものの一つ、それは指導教授だろう。指導教授は、学問研究の作法と姿勢を習得させるとともに、弟子の将来をプロモートする。
 私の場合、学部時代のゼミ教員であった辻正美先生(当時・京都大学教授)が、研究上の「生みの親」に他ならない。当時の私はというと、研究どころかろくに勉強もしない平凡以下の学生だった。京都大学の自由な学風がそれを許していた(と思いたい)。もし辻先生が学生を成績順で決めつけてしまう人だったら、私はノーチャンスだっただろう。しかし、辻先生は私に思いもよらない可能性を与え、私がその気になるきっかけを下さったのである。その辻先生は、1997年4月24日、突然帰らぬ人となった。先生自身48歳という若さであり、当時の私も25歳。博士課程2年で、ちょうどひとり暮らしを始めた頃だった。
 指導教授を失った私は、いわば学界の孤児となった。そんな私を拾って下さったのが山本敬三先生(京都大学教授)である。同先生の指導は大変厳しいものだったが、もしこれがなかったら今の私は絶対なかった。
 そんな2人の指導教授が、私にとっての「その気にさせてくれる」生みの親と、「厳しくしてくれる」育ての親だったことについては、以前書いたことがある(上野達弘「回想」法学周辺33号67頁〔立教大学、2005年〕参照)。ここで語りたいのはその先に出会った先生方のことだ。




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